枚方八景は、市制35周年を記念して「ふるさと枚方」らしい風景を将来に伝承していくことを目的として市民から公募し昭和59年10月に制定されたらしワン。これらはかなり広範囲に点在しているワン。 歴史を感じる町並みが残っているよ! ワンダフル!![]() 自己紹介 ハートマークのレオとは?プロフィール
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淀川は大阪の「母なる川」として桂川、宇治川、木津川が合流する大河です。淀川河川敷は広くてゴルフ場や公園が点在しています。淀川花火は風情がありました。淀川は四季折々の風情を楽しませてくれます。 |
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樟葉の宮は、6世紀のはじめに継体天皇が即位した場所として伝えられ、その跡は樟葉交野天神社のあたりだと伝えられています。同神社社殿のそばの原生林は、訪れる人を太古の世界に誘い込むように生い茂っています。 |
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平安時代、交野ケ原と言われ桜の名所がありました。桃山時代の様式を今に伝える片埜神社はその地にあり、 牧野公園はその北側にある。現在でも桜が満開の時期は宴会場となり、花見客も多いようです。 |
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山田池公園の中にある山田池はこの公園の中核をなす古い池で、池の周囲には深い木立、桜並木、竹林の丘、 菖蒲園などがあります。仲秋の名月が水面にうつる姿は格別の趣があります。 |
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国見山は標高約300mあり、今から500年前、津田周防守正信が津田城を築いたのはこの付近であると伝えられています。 山頂からは、枚方の町並みが望めます。交野山の頂上から笠置の山並み、比良・比叡の山々、遠くは六甲山や大阪湾まで眺望することができます。 |
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百済寺は、8世紀の終わり頃百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく) が百済一族の氏寺として建立した寺で、その跡は現在公園となって市民に開放されています。また、昭和27年には国の特別史跡に指定されました。公園内にある松の梢の間からの風は、在りし日の七堂伽藍の面影を語りかけていられるようです。 |
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万年寺山は、枚方市駅の近く、南側にあり多くの緑の木々に包まれた丘です。この丘には意賀美(おがみ)神社が鎮座しており、神社の石段を上りつめると、緑陰の中から「長松山万年寺」の標石や苔むした十三重の塔が現れ、明治の神仏分離令でとり払われた万年寺の面影をしのばせてくれます。 |
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香里団地は、昭和32年建設当時東洋一と言われていました。建設当時に植えられた大通りのけやき並木やイチョウ通りの街路樹は 40年の余りの歴史を経て現在では昔からここに生えていたかのように枝葉を空に張り、見事な景観を楽しませてくれます。 |
枚方には、観光地らしい風景がまだまだたくさんあるワン。僕が探訪した街角風景の数々だワン。どこにあるかわかるかな? わからないときは教えてあげるよ! |
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江戸時代から鋳物業を創業していた旧田中邸の資料館です。ここでは鋳造技術を紹介しております。 なかでも奈良や鎌倉の大仏の作り方がよくわかる説明がよいワン。昔の鋳造技術はすばらしい。他に昔の生活用品が展示してある。 親切な案内人の説明が館内に響き、なごやかなひとときになるワン。 |
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この竪穴式住居は近くの小学校を建設する工事で見つかった遺跡を復元したものである。 柱の位置や倒れた柱などがわかるように展示されている。これはかなり貴重な資料です。登呂の遺跡に行かなくても見学できるよ。 |
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古事記によると王仁博士は古墳時代前期の4世紀末に朝鮮半島の百済国から渡来し、 日本に論語を広め、学問の祖として崇敬されていた。江戸時代中期にこの地を調査した時に発見したとされる。 |
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枚方市駅から枚方公園へと続く道は歴史街道です。「ここはどこじゃと船頭衆に問えば ここは枚方鍵屋(かぎや)浦 鍵屋浦には碇(いかり)はいらぬ三味や太鼓で船止める」 『淀川三十石船歌』の一節ですが、枚方は京都、大阪の中間に位置し、江戸時代、京街道の宿場町として、また、三十石船が行き交う淀川舟運の中継港として栄えました。 枚方市では、旧枚方宿一帯で歴史街道の整備を進めている。 |
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枚方市に流れる川に天の川がある。あの織姫と彦星で有名な七夕伝説です。ここは交野市になりますが、 星田妙見宮は天の川の上流に位置し、源氏の滝やほしだ園地の星のブランコなども近くにあります。 |
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ちょっと変わった雰囲気のレストランです。広々とした敷地に池やお花畑などがあったり、なぜかロバがたくさんうめいております。 食事は農園でとれた食材を使ったメニューです。うさぎや、山羊、馬にもあえるよ。僕は馬とツーショットだワン。それにしても、なぜ、ロバがたくさん居るのかは不明です。 ピノキオ、ルシーニョロ教えて! |
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伏見は今も水郷の残る街です。ここは坂本龍馬が常宿としていた旅籠です。現在でも宿泊できるらしい。 江戸初期から続く船宿。維新の史跡。1862年(文久2)4月、薩摩藩の尊王攘夷派と公武合体派が、ここで乱闘、9人の尊い犠牲者を出した。 これを薩藩九烈士といい維新史幕明けの事件とし伏見の事変ともいう(寺田屋事件)。1866年(慶応2)1月には坂本竜馬が止宿中、 幕吏に襲われたが、女将の養女おりょう(竜馬の妻となった人)の機転で難をのがれた。坂本龍馬は霧島神宮に新婚旅行に行ったらしい。鹿児島県の霧島神社に行けばわかるよ。 |